終了済み講義
この講義では、「医学の父」ヒポクラテス(紀元前5〜4世紀)のものとされる論文を集めた『古い医術について 他八篇』(小川政恭訳、岩波文庫)を取り上げます。
「ものとされる」と書いたのは、実は「ヒポクラテス集成」として伝わる膨大な文書には、後世の研究でヒポクラテスの著作ではないとされる作品も多く混じっているからです。しかし、このことは逆に、古代においてヒポクラテスの権威がいかに大きかったかを示しているともいえると思います。そして今なおその権威が廃れていないことは、日本でも多くの大学医学部にその胸像が置かれていることや、現在でも彼の「誓い」が医療倫理の原点として受け継がれていることからもうかがえます。
しかし、実際に読んでみるとわかるように、ヒポクラテスの語る「医学」は現代の(西洋)医学とは大きく異なるものです。古代では、人間の健康は血液・粘液・黒胆汁・黄胆汁といった4つの体液のバランスによって決まると考えられていました(四体液説)。そして、病気と診断された場合には、悪名高い「瀉血」(静脈を切ったりヒルに吸わせたりして血を抜くこと)や薬草(ハーブ)の処方などを通じて、体液のバランスを調整することで健康を回復しようとしました。
このように、現代からすれば非合理にも見える古代医学は、しかし2000年以上もの間、西洋医学のスタンダードとして学ばれ、実践されていました。現代のように、病気の多くが細菌やウイルスへの感染で起こり、抗生物質やワクチンなどで治療・予防できることがわかったのは、わずか100年ほど前(!)のことなのです。
一方で近年、高度に専門化した医療の弊害も様々に指摘されています。そして、それに伴って古代医学の考え方が再び注目を集めています。とりわけ、古代の全体論的(ホリスティック)な身体観や、それに基づいた健康法(養生術)などが見直され、「プライマリ・ケア」や「代替医療」として医療の現場に取り入れられつつあるのです。
この講義では、2000年以上も前に書かれたヒポクラテスの代表的な論文を読むことで、現代とは大きく異なる古代の人体観・健康観を詳しく見ていきます。実際にヒポクラテスのテクストをひもときながら、古代の医学について学ぶことのできる機会はなかなかないと思います。古代の医学やその世界観に関心のある方や、現代の医学に疑問をお持ちの方など、多くの方のご参加をお待ちしております。
※ この講義では岩波文庫版(小川政恭訳)を用いますが、その他の翻訳(あるいは日本語以外)でお読みいただいても構いません。岩波文庫版はあいにく絶版ですので、中古(Amazonや日本の古本屋など)でお求めいただくか、図書館にてお借りください。
第1回講義:2022年10月04日(火):20:00 - 21:30
初回はイントロダクションとして、古代の医学史や医学理論についての概説を行います。ヒポクラテスが彼以前のどのような医学を批判し、また彼以降どのように継承されていったかを知ることは、次回以降のテクスト読解において重要です。また、ソラノスによるヒポクラテスの伝記や、「ヒポクラテス集成」の成り立ちについてもお話しします。
第2回講義:2022年10月11日(火):20:00 - 21:30
第2回は「古い医術について」を扱います。理論偏重の医学を批判して食事術の重要性を説いたこの論文は、古代からヒポクラテスの思想の特徴をよく示すものとして重要視されてきました。ちなみに、食事術はギリシャ語で「ディアイタ(δίαιτα)」といい、英語の「ダイエット(diet)」の語源にあたります。ヒポクラテスはこの食事術こそが、医術の起源であると考えます。
第3回講義:2022年10月18日(火):20:00 - 21:30
第3回は「空気、水、場所について」を扱います。この論文は環境(気候風土)が私たちの健康に及ぼす影響を述べ、現代の衛生学につながる発想を最初に示したものとして読み継がれてきました。医者は未知の町に着いたらまず風や太陽との位置関係を調べねばならない、と説くこの論文は、もっぱら病院という室内で行われる現代の医療とは異なる医療のあり方を示しています。
第4回講義:2022年10月25日(火):20:00 - 21:30
第4回は「神聖病について」を扱います。古来「神聖病」と呼ばれ、神がかりの病気とされた癲癇(てんかん)を、ヒポクラテスは自然的(身体的)な原因から説明しようとします。このように、観察と経験に基づいて医学を呪術から解放したところに、ヒポクラテスが「医学の父」と呼ばれる一つの理由があります。この論文で、彼の決して2000年以上前のものとは思えない合理的な思考を辿ってみましょう。
第5回講義:2022年11月01日(火):20:00 - 21:30
最終回は、まず「流行病 第三巻」に記された具体的な症例を読み解きながら、この講義で学んできたヒポクラテスの医学思想を復習します。加えて、西洋の医療倫理の原点とされる「誓い」をその現代版とされる「ジュネーヴ宣言」と比較することで、古代と現代の医療倫理の違いや変わらない点についても議論したいと思います。
こんにちは。東京大学で科学史・科学論の研究をしている鶴田想人と申します。
The Five Booksで講義をさせていただくのは今回で4度目です。これまでクーンの『科学革命の構造』、ポランニーの『暗黙知の次元』、コリンズの『我々みんなが科学の専門家なのか?』といった現代の科学論の古典を扱ってきました。今回は一気に時代をさかのぼり、ヒポクラテスの『古い医術について 他八篇』を取り上げます。
この本は、私が医学史に関心をもつきっかけになった一冊です。私は大学図書館で借りたこの本を読んで、ヒポクラテスのまったく古びない人間を見る”眼”と、その合理的思考に惹かれました。しかもその合理的な思考が、一方では底知れない「古さ」(深さ)に通じているような気がしたことが、私をヒポクラテスに限らない、古代医学の研究へといざないました。
科学史・科学論とは、私たちの社会や思考のあり方を大きく規程しているといえる科学をその成り立ちから再考する学問です。私たちは今日、科学の計り知れない恩恵を受けながら、一方ではその計り知れなさゆえに、科学が見せてくれようとする未来の文明のあり方に不安も抱いているのではないでしょうか。
科学とは何か、また科学と私たちの関係はどうあるべきか。そうしたことを考える際に、科学の歴史(=科学史)やすでに科学について言われてきたこと(=科学論)を知ることは、大きなヒント、そして力になるはずです。
The Five Booksでの講義を通じて、多くの方にこの学問の魅力をお伝えできればと思います。どうぞよろしくお願いいたします