終了済み講義
この講義では、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』の第1篇「スワン家のほうへ」の前半にあたる「コンブレー」を、三週間かけて一緒に読んでゆきます。
『失われた時を求めて』は、とても変わった小説です。全七篇からなるスケールの大きさ(岩波文庫版では全十四巻)はもちろんのこと、文や段落の異様な長さ、途中で何度も挿入される哲学的な考察、長い前置き話や余談を前にして、わたしたち読者は困惑します──いったい何にむけて、何を語っているのか、と。
でも、何ということはありません。『失われた時を求めて』は、〈わたしたち〉の物語です。そこに描かれているのは〈わたしたち〉の姿であり、そこで問われているのは、人生をめぐるかけがえのない問いです。たとえば、幸福とは何か。わたしたちはどのようにして他者と出会うのか。いかにしてひとは哀しみから癒されてゆくのか。
『失われた時を求めて』に一歩踏み込んでしまえば、読む前の自分には、もう戻ることはできません。この作品には、そのような特別な磁力があります。けれども、全篇の長大さにどうしても尻込みしてしまったり、読み始めたはいいものの読み筋が分からなくなって途中で挫折したり、といった経験をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
大丈夫です。本講義では、小説の構成や読みどころ、重要なテーマに絞って解説をおこなうことで、『失われた時を求めて』の魅力を存分に味わってもらい、みなさんの読書を最後までサポートします。三週間という限定された期間で、それなりの量を読むためのペースメーカーにもなると思います。
小説を読むことの意義の一つは、わたしたちが見ている景色、生き過ごしてしまっている感情を、いわばスーパースローモーションで再体験することにあると思います。逆に、あまりにゆっくりと進行しているため気づかれない出来事(たとえば、老い)を、ハイパースピードで生きなおすことにあるとも言えるでしょう。
本講義は、
・『失われた時を求めて』を読み始める一歩を探している方
・読み始めて、途中で挫折してしまった方
・『失われた時を求めて』を読み返してみたい方
・サルトルやメルロ゠ポンティなどの哲学的なプルースト論に関心を持つ方
など、幅広い方々に向けたものです。
みなさんのご参加を心よりお待ちしております。
*今回は、吉川一義訳『失われた時を求めて1 スワン家のほうへI』(岩波文庫、2010年)を使って講義を進めていきます。『失われた時を求めて』には多くの翻訳がありますが、岩波文庫版には図版が多く、巻末に「場面索引」が付されているという利点があります。
第1回 (2024年7月5日 20:00-21:30)の内容:
「眠りと目覚め」をテーマとして、『失われた時を求めて』を読み進めるための準備をおこないます。イントロダクションとして、プルーストの生い立ちや背景、文学史上の位置づけやキーワード、読みどころを初めに説明してゆきます。25頁から36頁まで読んでおくと、初回講義の予習になると思います。
第2回 (2024年7月12日 20:00-21:30)の内容:
36頁から123頁までを扱います。テーマは「記憶と習慣」です。紅茶に浸したマドレーヌを口にして過去が蘇るあの有名な場面はこのパートに含まれています。偶然の機会によっておのずから過去のイメージが戻ってくる「無意志的想起」は、作品全体の根幹をなしており、とても重要です。Slackを活用し、疑問や感想を共有しつつ読み進めていきましょう。どんなに些細なことでも大丈夫ですので、お気軽におたずねください。
第3回 (2024年7月19日 20:00-21:30)の内容:
123頁から258頁までを扱う予定です。テーマは「読むこと」。本、イメージ、建築、人間の振る舞いなど、このパートではさまざまな対象が「私」によって読まれ、解釈されてゆきます。一週間の範囲として130ページは多めなので、無理をせず、それぞれのペースで進んでいただいて大丈夫です。講義で扱う予定の箇所は、あらかじめSlackを通してアナウンスいたしますので、ご安心ください。
第4回 (2024年7月26日 20:00-21:30)の内容:
258頁から396頁までを扱う予定です。初恋の相手との出会い、睡蓮の花園、夕陽に佇む鐘塔など、珠玉の美しい場面が連続します。最終回のテーマは「まなざし」。これまでの内容を振り返りつつ、次巻への展開も紹介することで、『失われた時を求めて』の面白さを確認したいと思います。
はじめまして。福井有人(ふくい ありと)と申します。東京大学で、主にミシェル・ド・セルトーという作家のテクストを読み、研究に携わっています。書くことや話すこと、夢を見ることや想い出すことにつきまとう、能動とも受動とも断定できないけれど「わたしのものだ」と言うしかない、そんな経験に関心があります。
ところで、わたしは先日、風邪をひいて寝込みました。身体の節々が痛み、咳が眠りを妨げる一方で、疲労はむしろ眠りへと誘います。スマホを手に取っても、ろくに文字を眼で追うこともできません。頭もぼんやりしてきたようです。極端にいえば、ここがどこか、自分は誰なのか、確信がなくなってゆく──振り返ってみて思うのですが、それって、どこか小説を読む経験に似ていないでしょうか。
このように述べて、小説と病を美化することになるかもしれません。ですが、プルーストの『失われた時を求めて』には確かに、そう考えさせる何かがあるように思います。その「何か」をみなさんと共に言葉にし、共有することができたらと願ってやみません。
みなさまのご参加を心よりお待ちしております。