終了済み講義
今から220年ほど前、医者であるグザヴィエ・ビシャが『生と死の生理学研究』の冒頭に記した
「生とは死に抗する機能の総体である」
という言葉は、私たちの「まなざし」の新たな局面を告げるものでした。
その時期にはじめて〈死〉をテコにして〈生〉や〈病〉という現象が捉え返されるようになったのです。
「まなざし」の変化とは、私たちが身体をそのように観察したり実験したりするようになった、ということではありません。そうではなくて、どのように観察や実験をするのかということを決定するための大前提が変化したということです。
今回の講義では、以上のような「まなざし」の変容に注目した20世紀最大ともいえる哲学者であり歴史家でもあるミシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』(1963年)を取り上げます。
講師の私は、医学の研究者でもなければ、フーコーの研究者でもなく、17世紀の哲学を専門に研究している人間です。そんな私がなぜこの著作を選んだのか。或る違和感がきっかけでした。とある17世紀の哲学者の言葉が、現代の感覚からするとどうしても理解できないという事態に遭遇したのです。数百年前の、しかも哲学者の言葉が、現代の私たちと異なるのは、当然のことと思われるかもしれません。ですが問題は、なぜそのような変化が生じることになったのか、ということです。それがまさに「まなざし」をめぐる問題でした。
現代を生きる私たちは、同時代の「まなざし」を当然のものとしながら生きています。
でも、そもそも私たちの常識や見ている世界はどのように定められたものなのでしょうか。自分の足元にどんな足枷がはめられているのか、実は私たち自身もよく知らないのです。
『臨床医学の誕生』では、18世紀後半から19世紀にかけて生じた医学的知識の再編成がテーマとなります。このテーマは「まなざし」の変容をとてもよく映し出すものです。重要な着眼点となるのは、冒頭のビシャの言葉にもみることができた〈死〉というものへの態度です。
こうした〈死〉への態度が、現代の私たちの生・病・死の捉え方を、私たち自身が意識しないところで規定していると言うことができます。
フーコーの著作は難解ですが、そこに足を踏み入れた人には難解さに見合ったお土産を手渡してくれることでしょう。フーコー研究者の重田園江さんも「フーコーの著書というのは一つ残らずとても手が込んでいて、プロットが複雑で要約が難しいだけでなく、何を伝えたいのか今ひとつ分かりにくい。だがもちろんこれは欠点ではなく、むしろ彼の著書の限りない魅力の源泉である」(『ミシェル・フーコー 近代を裏から読む』ちくま新書)と述べています。ぜひ一緒に私たち自身の「まなざし」を問い直す読書を体験してみましょう。
みなさんのご参加をお待ちしております!
※講義期間の都合上、全ての章を読むことはできませんので、いくつかの章をピックアップして読み進めます。扱う章については、各回の予定をご覧ください。
※用意していただく書籍はどの版でも構いません。現在、みすず書房から新装版が出ておりますが、〈始まりの本〉版や、それ以前のものをご用意いただいても、問題なく講義に参加できます。各自、手に入れやすいものをご用意ください。図書館の利用もおすすめです。
第1回 (2024年7月28日 20:00-21:30)の内容:
ミシェル・フーコーが1950年代から60年代にかけてどのようなテーマに取り組んでいたのかを紹介します。また、『臨床医学の誕生』序文を読みながら、本書の概要を解説します。読み解くのが難しい部分もあるかもしれませんが、まずはその難しさを感じてもらうためにも、ぜひ序文を眺めてからご参加いただければと思います。
第2回 (2024年8月4日 20:00-21:30)の内容:
第1章「空間と分類」と第4章「臨床医学の淵源」を中心に解説します。〈個人の肉体〉こそが〈病〉を局在的に表現するという捉え方は、医学的まなざしの変容によってもたらされたものであったこと、また18世紀末に現れ、その後の認識を形作った臨床医学の歴史に関する神話について学びます。
第3回 (2024年8月11日 20:00-21:30)の内容:
第6章「徴候と症例」を中心に解説します。臨床医学的なまなざしの登場は、それまで別のものだと思われていた徴候と症状の区別を取り去り、病の本体が言語的に表現されることを可能にしたことなどを学びます。コンディヤックの「行動の言語」などの発想がこうした場面で重要な役割を果たすことになります。
第4回 (2024年8月18日 20:00-21:30)の内容:
第7章「見ること、知ること」を中心に解説します。臨床医学は「観察」を特権的に扱うようになっていきます。あるがままに見ることでありながら、同時に知覚しつつ分析することが目指され、そうした中で単なる「まなざし」ではなく、病を直接的に見抜くような「まなざしの一瞥」が登場することになります。
第5回 (2024年8月25日 20:00-21:30)の内容:
第8章「屍体解剖」と結論を中心に解説します。〈病〉をどのように認識するか、ということの転換が18世紀末から19世紀にかけて生じました。〈死〉を頂点として〈生〉や〈病〉を理解する三角形の形象が登場してくるのです。「生命論は、この「死論」の基盤の上に現われる」と言われるように、〈死〉を通して初めて〈生〉という概念が捉えられるようになった事態について改めて考えてみたいと思います。
こんにちは。東京大学大学院で哲学を研究している三浦隼暉(みうらじゅんき)です。これまで、多くの参加者の方々と一緒にデカルトやスピノザ、ライプニッツなど近世哲学の著作や、フーコーの生命思想史に関する著作などを扱ってまいりました。
しばしば「哲学研究って何をしているの?」と聞かれることがあります。研究の進め方は人によって様々ですが、私の場合、300–400年前のヨーロッパで書かれた文章を読みながら、その内容を、時代も文化も異なる現代の我々にも理解できるような仕方で提示し直すような研究をしています。
私が目指しているのは「哲学は留保なしに愉しい」と感じてもらえるような講義を作ることです。一緒に哲学書を紐解くことで、そのような愉しさを経験するお手伝いができればと考えています。最後に、私の恩師が残した言葉を送ります。「本は一人で読むものですが、ときには窓を開けて一緒に哲学をしましょう」。