終了済み講義
啓蒙とは何か。国語辞典を引いてみると、「ふつうの人々に知識をあたえること」とあります(三省堂国語辞典 第七版)。「ふつうの人々」とは誰なのか。誰が「知識をあたえる」のか。「啓蒙」という言葉に、どことなく傲慢さや押し付けがましさを感じる人も多いのではないでしょうか。また、啓蒙は啓発とも言い換えられることがあります。「自己啓発」という言い方でなら、個人個人の受け取り方は異なれど、むしろ良いもの、積極的に取り組むべきものとして推奨されることが少なくありません。巷には自己啓発と銘打った書籍やセミナーの案内が溢れています。
さて、歴史現象としての啓蒙主義は、一般的に18世紀のヨーロッパで広まった思想運動として知られています。人間の理性に対する信頼を主な特徴とする進歩主義的な思潮として、政治的・社会的にも大きな影響をもち、21世紀になった現在でも議論の対象となり続けています。ただし、啓蒙主義と一口に言っても実際には地域や階級などによってさまざまに色分けすることが可能です。昨今の歴史学研究は、そうした啓蒙主義の多様性を描き出すとともに、「楽観的な理性主義」、つまり"啓蒙主義者は理性があればどんな問題でも解決できると思っている"といったようなステレオタイプな見方だけでは捉えきれない啓蒙主義の豊かさを示すことに貢献しています。
しかしながら、啓蒙主義に対する批判に応えるためには、あるいは従来の啓蒙主義観を修正するためには、歴史記述の正確さを追求するだけでなく、思想内容そのものを検討してみる必要があります。例えば、啓蒙主義の別の側面に注目することで、確かに"啓蒙主義はどれもこれも楽観的な理性主義だ"という誤解を正すことはできます。けれども、問題視されている楽観性や理性への信頼についてはまだ議論や考察の余地があります。そしてその役割を担うのが哲学です。啓蒙主義は、どのように、またどの点で楽観的なのか。理性主義とは具体的に何なのか、またそれはどうして問題なのか。人間の合理性や文明が必ずしも良い結果ばかりをもたらさないというのは、私たちもまさに今、日々の生活の中で目の当たりにしているところです。それならば、解決に導くのは理性以外の能力なのか、それともやはり理性自身なのか。そもそも、理性とはどのような能力なのか。本講義では、啓蒙主義の代表的な哲学者であるイマヌエル・カント(1724~1804)の『啓蒙とは何か』および歴史哲学の数編の論文を読みつつ、皆さまとこれらの問題を一緒に考えます。
『啓蒙とは何か』は1784年、カントが60歳の年に発表した論文です。カントは主著『純粋理性批判』の第一版(1781年)を上梓した後、『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785年)や『実践理性批判』(1788年)など道徳哲学の著作を公表していくのですが、この間の時期に人類の歴史を哲学的に考察するという試みに集中的に取り組んでいます。その成果のひとつが『啓蒙とは何か』です。その文章はカントなりの解答から始まります。「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。」カントによれば、未成年状態にあるのは「その人自身に責めがある」、つまり自己責任です。そこから脱するには「決意と勇気」をもたなければならない、と彼は言います。……これだけで、「さすがカント先生は偉い!」という感想をもつのは無理があるかと思います。しかしじっくり読み進めていくと、当時の時代的背景ありきの議論の中にも、現代に通ずる普遍的なテーマがきっと見つかるはずです。
講義では、カント哲学の基礎的な思想や概念にも触れながら、できる限り分かりやすい解説を心がけます。発見や収穫の多い充実した1ヶ月を皆さまと過ごすことができれば何よりです。カントの著作に初めて触れる方も大歓迎です。ご参加お待ちしております!
*本講義では、岩波文庫版の『啓蒙とは何か(他四篇)』(篠田英雄訳)を使用します。他の邦訳書をお持ちの方は、そちらを使ってご参加いただいても構いません。ですが、講義内で挙げるページ数は岩波文庫版に準じますので、あらかじめご了承ください。
第1回講義:2023年06月27日(火):20:00 - 21:30
イントロダクション:カントの生涯や、『純粋理性批判』をはじめとする主要著作とその内容、エピソードや哲学史における位置づけなどを簡単に紹介します。その際、岩波文庫版『啓蒙とは何か』に収められている同タイトルの論文と他四篇、またこの文庫には載っていない歴史哲学の論文について簡単に紹介します。それらが書かれた時代背景や、カントの他の著作との関係についてお話しする予定です。
第2回講義:2023年07月04日(火):20:00 - 21:30
『啓蒙とは何か』:有名な論文ですが、その本文は岩波文庫版にして15ページにも満たない短いものです。「概要」でも書いたように、今日の辞書的な意味では、啓蒙とは「ふつうの人々に知識をあたえること」、つまり誰かが他の人々に対して「蒙を啓く」ことです。しかしカントの説明によると、啓蒙とは人間が自分自身に責任がある未熟さから、自らの力で抜け出ることです。ここにはカント哲学の中核にある「批判」の精神が垣間見えます。啓蒙主義に対する後世の見解と引き合わせながら、カントの主張する啓蒙が含む示唆と問題点を考えます。
第3回講義:2023年07月11日(火):20:00 - 21:30
『世界公民的見地における一般史の構想』序説〜第四命題:この論文は、歴史哲学に関わるカントの著作のうちのひとつで、『啓蒙とは何か』の1ヶ月前に同じ雑誌に掲載されたものです。序説と9つの命題からなる本論とで構成されています。その冒頭には、人によっては眉唾物として一蹴されてしまいそうな主張が示されています。それは、歴史は個人に注目すると混沌としているが、全体として見ると「規則正しい発展過程」をなしている、という主張です。カントはその本論で、人類の発展における重要な契機を挙げていきます。前半部分には、「個と類」や「非社交的社交性」といった、カントの社会論を理解する上で見逃せないテーマや概念が登場します。
第4回講義:2023年07月18日(火):20:00 - 21:30
『世界公民的見地における一般史の構想』第五〜第九命題:後半部分を読んでいきます。ここでは、人類に課せられた課題が主なテーマとなっています。多くの人が引っかかるであろう言葉は「自然」です。この論文の冒頭でも述べられるように、カントは歴史全体の規則正しい歩みの背後には「自然の意図」があると考えています。こうした自然の見方を、哲学では「目的論的自然観」と呼んだりします。目的論は、実はカント哲学の体系全体を貫いていると言っても過言ではない重要な思想です。過去の講義で扱った『永遠平和のために』と『判断力批判』からも関連部分を取り上げながら解説を加えていきます。
第5回講義:2023年07月25日(火):20:00 - 21:30
『啓蒙とは何か』再読:第3回・第4回で読んだ『世界公民的見地における一般史の構想』では、一見すると人類の進歩を楽観的に信じているようにも思われるカントの歴史観が示されました。講義の最後では、このことを踏まえて、もう一度『啓蒙とは何か』を読みます。理性をはじめ、人間に備わっているさまざまな能力を展開することの意味、そしてそれを人類や自然という規模で捉えた際に開かれる社会的・歴史的な意味を考えながら、改めてカントの啓蒙思想について皆さまと一緒に考察します。
こんにちは。関西学院大学でカントの思想を中心に哲学を研究している八木緑(やぎ・みどり)と申します。これまでカントの『永遠平和のために』と『判断力批判』の講義を担当させていただきました。今回も、参加者の皆さまと一緒にいろいろな気づきを得ながら、哲学の面白さを共有していきたいと考えています。
これまでのシラバスにも書いてきたこと、また大学の講義でも学生さんたちによく言っていることのほとんど繰り返しになりますが、私にとっての哲学とは「よく分からないもの」です。以前は専門外の友人に哲学に対するネガティブな意見を言われて、ショックを受けたり落ち込んだりして、かと言ってろくに反論もできませんでした。しかし最近になってようやく、「哲学の良さは、それぞれの人が哲学してみないと分からない」ということに気づきました。拍子抜けするような答えかもしれませんが、哲学とはそういう学問であり、まさしくそこに良さがあるのだと思います。その良さに気づくには、哲学書に向き合い、人と議論し、時間をかけて思考を続ける必要があるかもしれません。確かにそれは楽なことではありませんが、決して無駄ではないと思います。皆さまの「哲学ライフ」を豊かにするお手伝いが少しでもできれば幸いです。