終了済み講義
今回の講義では、ハンナ・アーレント『責任と判断』を読んでいきます。この本は、アーレント生前の講義や講演、エッセイが、第一部「責任」、第二部「判断」という主題の下に一書にまとめられたものです。本書には全部で8つテクストが収録されていますが、この講義ではそのうちの4つを取り上げ、「責任」「善/悪」「良心」といった問題について考えていきたいと思います。
今からちょうど10年前の2013年、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の映画『ハンナ・アーレント』が日本でも公開され、大きな話題となりました。この映画は、「アイヒマン論争」の顛末にフォーカスして、アーレントの人生の一局面を描き出した作品です。
アイヒマンという人物は、ナチス・ドイツの軍人で、ユダヤ人を絶滅収容所へと移送する部局の統括者として、約600万人にも及ぶユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)に加担しました。戦後は長らく逃亡していましたが、1960年に逮捕され、翌年、エルサレムで裁判にかけられることとなりました。アーレントはこの裁判を傍聴し、全5回にわたるレポートを雑誌『ニューヨーカー』に連載、その後『エルサレムのアイヒマン―悪の凡庸さについての報告』という一書にまとめて公刊しています。ところが、このレポートが公開されると、彼女はいくつかの論点について、激しい非難の嵐にさらされることになりました。そのなかでもとりわけ重要な論点が、同書の副題にもなっている「悪の凡庸さ」という概念をめぐるものです。
今日、「悪の凡庸さ」という言葉は、広く人々に知られるところとなっています。しかしそれだけに、その意味についての一般的な理解の正否についても議論になっているところです。そのような状況をもたらした根本的な原因は、「悪の凡庸さ」という言葉の含意について、『エルサレムのアイヒマン』において十分に説明されていないことにあるかもしれません。そこで今回の講義では、「悪の凡庸さ」について直接間接に語られる3つテクスト(「集団責任」「独裁体制のもとでの個人の責任」「思考と道徳の問題」)を読み解いて、「悪の凡庸さ」という概念の真意について理解することを目指します。
それを受けて最終回では、「リトルロックについて考える」を取り上げます。このテクストは、リトルロック・セントラル高校への黒人生徒の入学を巡って生じた事件に関する論考ですが、「責任」という概念に着目することで、アイヒマン問題とも関連付けつつ理解することを試みたいと思います。。
テキスト ハンナ・アーレント『責任と判断』ちくま学芸文庫、2016年 (Hannah Arendt, Responsibility and Judgment, Schocken Books, 2003.)
第1回講義:2023年10月08日(日):20:00 - 21:30
今回のテキストを読み進めていくための準備作業として、『エルサレムのアイヒマン』におけるアーレントの主張やアイヒマン論争の顛末、また、哲学史における様々な「責任」概念の定義について概説していきます。
第2回講義:2023年10月15日(日):20:00 - 21:30
「集団責任」を読んでいきます。このテクストでは、お題として与えられた「ビーチでの溺死」、「銀行強盗」、「黒人差別の社会制度」という3つの事例に対する「集団責任」の有無について議論されています。その読解を通じて、アーレントの「責任」概念の理解について確認していきます。
第3回講義:2023年10月22日(日):20:00 - 21:30
「独裁体制のもとでの個人の責任」を読んでいきます。このテクストでは、「アイヒマン論争」について述懐され、「悪の凡庸さ」という語を副題に含む『エルサレムのアイヒマン』の真意について説かれています。とくに、「悪の凡庸さ」という概念を理解するのに重要な「歯車理論」の意味については精緻に読解していきます。
第4回講義:2023年10月29日(日):20:00 - 21:30
「思考と道徳の問題」を読んでいきます。このテクストは、「悪の凡庸さ」の理論的な理解にとって極めて重要なもので、アーレント晩年の著作『精神の生活』(刊行は没後)の一部を成すことにもなるものです。アーレントはアイヒマンに「思考の欠如」という特徴を見出しましたが、そのことから「悪」が生ずるメカニズムを確認していきます。
第5回講義:2023年11月05日(日):20:00 - 21:30
「リトルロックについて考える」を読んでいきます。このテキストは、アイヒマン裁判より前に書かれたものですが、「責任」という主題を軸にして読み解くことを通じて、アイヒマン問題とも関連付けながら理解を深めていきます。
はじめまして。齋藤宜之(さいとうよしゆき)と申します。イマヌエル・カントやハンナ・アーレントなどを中心に、近代・現代の哲学を研究しています。どうぞ宜しくお願いします。
「恋はするものではない、落ちるものである」という言葉がありますが、このことは「哲学」にも当てはまります。つまり人は、「さあ、今から自分は哲学をするぞ」という明確な意図をもって哲学を始めるのではなく、ある時、気が付いたらすでに哲学をしているという瞬間があるものなのです。それは例えば、子供心に「宇宙の果ての向こう側には何があるんだろう?」という疑問が心に浮かんだ瞬間であったり、追い求めていた地位や富をようやく手に入れたけれどもそれに虚しさを感じ、「人間にとって本当に大事なものは何なのだろう?」と考えた瞬間であったりします。とはいえ、そういった難題に徒手空拳で立ち向かっても、たいていの場合、勝ち目はありません。そこで古典的な哲学書の出番です。そこには、各人にとって切実な問題に立ち向かうための道具がたくさん隠されているはずです。この講義を通じて、それぞれの方にとって役に立つ道具を、一つか二つお持ち帰りいただければと思っています。それでは、講義でお会いしましょう!