終了済み講義
この講義では、フランス人作家であるボリス・ヴィアンの名作、『うたかたの日々 L’Écume des jours』(1947年)を扱います。ヴィアンはフランスにおいてとても根強い人気を持つ作家で、『うたかたの日々』と言えば「高校生のときに読んだなあ」と若い頃を懐かしむフランス人に多く出会うことのできる、そんな作品です。
ヴィアンは1920年に生まれ、1959年に心臓病で急死するまでの短い生涯のあいだ、作家や歌手、そしてジャズトランペッターとして多彩な活動に情熱を注ぎました。個性と才能に溢れるヴィアンの作品では、言葉遊びや奇想に満ちた空想的な世界が展開される一方で、そこには戦争や自身の抱える病に由来した暗い影が常に付きまとっています。『うたかたの日々』はそういった光と影の二面性が、いわば「恋愛小説」の形をとって結実したものだといえます。
この二面性は、本作が「現代で最も悲痛な恋愛小説」(レーモン・クノー)として評判であることからも窺えることでしょう。主人公は莫大な遺産のために一生働く必要のない青年コラン。親友のガールフレンドに叶わぬ恋心を抱いていた彼はあるとき、可憐な少女クロエと運命的な恋に落ちます。二人は結婚し、これから幸せな暮らしを送るはずでしたが、クロエは肺に睡蓮の花が咲くという奇妙な病に冒されてしまいます… コランはあまりにも膨大な治療費のために遺産を使い果たし、労働を余儀なくされます。
遊びの世界から生活のための労働へとうまく移行できず、また器用に世渡りしていくことができない 「イニシエーション失敗の物語」だとも言える本作は、型にはまった社会を生きる大人や、人間性を無視した労働ないし戦争への拒否として、学生運動が盛んとなった1960年代後半に再び注目を浴び今に至っています。しかし一通り思春期を終えてしまったという読者にも心に響くものを持っている、とても魅力的な作品です。
その『うたかたの日々』が持つ魅力の一つは、なんといっても語り手(ないしヴィアン)が自由自在に用いる言葉遊びにあると言えます。コランは、自分が弾いたピアノの音色に合わせてオリジナルカクテルを自動で作ってくれる「ピアノクテル(野崎訳では「カクテルピアノ」)」という機械を発明し、親友のシックは哲学者ジャン=ソール・パルトル(ジャン=ポール・サルトルの語音転換)に夢中です。造語や「かばん語」、もじり、故意の言い間違いなど、こうした豊かな言語遊戯の裏には、言葉そのものに対する深い関心と理解があります。
そこでこの講義では、「言葉」が持つ可能性をテーマに、『うたかたの日々』をゆっくりと読解していこうと考えています。言葉とは革新的で創造的な側面を持つ一方で、使い古された常套句や退屈な繰り返しに堕落したり、あるいは「正しい言葉遣い」に過度に固執したりする保守的な側面も持っています。またこれこそ手垢に塗れた表現かもしれませんが、言葉は甘い蜜にも、鋭い刃にもなり得ます。わたし自身、言葉の持つこうした二つの側面が、ヴィアンの『うたかたの日々』に描かれる遊戯と(惰性の)労働、創造と因習、光と影といった先述の二面性に密接に結びつき、独特の物語世界を作り上げていると解釈しています。この観点を中心的な軸に据えて、フランス文学史など背景にある文脈も踏まえながら、みなさんと一緒に本作をじっくりと味わうことができれば幸いです。
なおこの講義では、ボリス・ヴィアン、野崎歓(訳)、『うたかたの日々』、光文社古典新訳文庫、2011年を使用します。
第1回講義:2024年03月29日(金):20:00 - 21:30
文学が今よりも社会的に大きな影響力を持っており、文学の政治参加が真面目に議論されていた1940年代に、ヴィアンは言葉遊びを使った悪ふざけとも取れる文学を創作してきました。このことがフランス文学史のなかで持つ意味とは何だったのでしょうか。第一回の講義では導入として、ヴィアンの生涯や作品の背景についてお話しします。
第二次世界大戦が終わり、パリはナチス・ドイツの占領から解放され、アメリカの文化が一気に流入してきます。またヴィアンは当時のフランスにおける知の中心地であったサン=ジェルマン=デ=プレにて、サルトルやボーヴォワール、カミュらと交流しながら、実存主義に沸く年長者たちの姿をいたずらなーあるいは挑発的なまなざしで見つめていました。ヴィアンは「いたずらっ子」であると同時に、フランスのエリート校出身の秀才であったことからもわかるように、知性のひとでもあったのです。
第2回講義:2024年04月05日(金):20:00 - 21:30
「まえがき」(7ページ)から23章まで(127ページ)を読みます。
『うたかたの日々』の三分の一にあたるこの箇所では、コランは生活の心配をすることなく、友人たちと優雅で楽しい生活を送っています。いわば彼は「遊びの世界」に生きているのです。 そしてこうした創造的な世界は、多くの言葉遊びによって表現されることによって、登場人物の心情を反映していると言えます。20世紀の大物哲学者サルトルをいじり倒す語り手の表現も見ものです。そこでヴィアンの言葉遊びの世界を、まずはご紹介したいと思います。
しかしそうした「遊びの世界」を注意深く読めば、そこは必ずしも明るいだけの世界ではないこともわかります。のちにコランの家ないしクロエを襲う異変や、社会の残酷さの萌芽が、すでにこの時点から顔を覗かせているのです…
「大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオーリンズの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。」 (まえがき)
「ぼくに関心があるのは、万人の幸せではなくて、一人ひとりの幸せなんだ」 (15章)
第3回講義:2024年04月12日(金):20:00 - 21:30
24章(128ページ)から40章(218ページ)までを読みます。
この箇所ではこれまでの「遊びの世界」を覆っていたフィルターが少しずつ剥がれ、社会の残酷さや恐ろしさが剥き出しのまま登場人物たちの目に飛び込んで来るようになります。そこで確認していきたいのは次の二点です。
一つ目は、コランやクロエ、ひいてはヴィアン自身の「労働」にかんする持論についてです。そして二つ目は、クロエがかかってしまう病気が意味する内容についてです。この箇所は物語の大きな転換点であり、光と影が交錯する重要な場面となっています。
「川が海に流れ込む場所には、乗り越えがたい海嘯や、漂流物の躍る大きな渦の泡立ちが形作られるものだ。周囲の夜とランプの明かりのあいだで、闇から思い出が逆流してきて、光と衝突しては、沈んだり、ありありと姿を現したりし、その白い腹や銀色に輝く背中を見せるのだった。」 (33章)
第4回講義:2024年04月19日(金):20:00 - 21:30
41章(218ページ)から最後の68章(345ページ)までを読みます。
最後の三分の一は、コランが働くことを強いられる「労働の世界」です。とりわけコランの労働の場面では言葉遊びは姿を消します。その代わり、明らかに馬鹿げたくだらない内容の仕事が、真面目に、淡々と語られている点が特徴です。
これまで世界を構成していた事物たちが光を失ってしまうように、言葉の遊戯的な側面も失われていきます。またコランに浴びせかけられる言葉は甘い愛の囁きから罵倒に変わり、刃のように彼を傷つけていきます。第二回でお話しする「遊びの世界」との対比から、言語表現の違いに注意しつつ、この箇所を一緒に読んでいきましょう。
「人間は変わるものじゃない。変わるのは物のほうさ」 (53章)
講師の馬場智也と申します。京都大学大学院 人間・環境学研究科博士課程に在籍しており、現在は主にベルギーのフランス語文学を研究しています。
The Five Booksではマルグリット・デュラスの『愛人/ラマン』に続き、二回目の講義です。
わたしがヴィアンの『うたかたの日々』と出会ったのは、学部三年生の頃です(主人公のコランとほぼ同年齢)。当時は言語学を中心に勉強していましたので、文学というよりも言語に対する関心が強く、言葉遊びを巧みに用いるヴィアン作品のファンになりました。また卒業論文で「『うたかたの日々』に見る言葉遊び」を書いたことがきっかけで文学研究を志すようになった、思い出深い作品でもあります。
今更いうまでもないかもしれませんが、文学は言葉でできた芸術です。物語を追ったり教養を身につけたりすることも大切ですが、一つ一つの言葉に丁寧に向き合うことなしに文学を味わうことはできない、そうした基本的な姿勢を教えてくれた作品でもあります。
今回の講義ではあまりマニアックになりすぎないよう気をつけつつ、みなさんとヴィアンの言語=世界を楽しむことができればと思います。また原文であるフランス語のニュアンスもできるだけお伝えするよう心がけますので、フランス語を勉強し始めた、勉強しているという方にもぜひご参加いただけますと幸いです。
みなさまのご参加、心よりお待ちしております!