終了済み講義
私たちが何かを「美しい」と感じるとき、その感情を哲学的にはどのように説明することができるでしょうか。植物や動物などの自然物、絵画や彫刻などの人工物、あるいは波の音や鳥の声、声楽や器楽のように無形のもの。私たちは実にさまざまなものに対して美を覚えます。
ところで、美とは物の性質でしょうか。例えば、「この皿は丸い」とか「この皿は陶器だ」といった判断と、「この皿は美しい」という判断は、同種のものとして扱ってもよいのか、それとも別々に考えるべきなのか。形や製法に関する判断は誰しもが同意できそうですが、芸術作品に好みがあるように、皿の美しさについては意見が分かれるかもしれません。そうすると、「〇〇は美しい」という言表は特殊な判断と捉えられなければならないようにも思われます。では、美の判断はどのような点で特殊なのでしょうか。本講義ではイマヌエル・カント(1724~1804)の『判断力批判』を読み解きつつ、美の問題に迫ります。
カントの主著のひとつである『判断力批判』は1790年に公刊されました。「批判」と名がつく著作には、これに先立って『純粋理性批判』(1781/1787年)と『実践理性批判』(1788年)があります。これらはまとめて「三批判書」と呼ばれたりしますが、第三の主著である『判断力批判』は、カントがその序言で述べているように、「批判哲学」という彼の思想体系を完結させることを意図して書かれました。
いわば集大成的な位置づけにある著作はさすがに難解です。何よりもまず先行する二つの『批判』の趣旨をある程度は知っている必要があります。また、この著作は大きく二部に分かれているのですが、それぞれ第一部は「美」、第二部は「目的論」をテーマとしており、一見すると繋がりがなさそうなところも解釈をより困難にしています。しかし一貫しているのは、題名通り「判断力」が議論の中心にあるということです。特に、この著作で導入された「反省的判断力」という概念が鍵になります。これは一体、どんな能力なのか。また、この判断力が美の判断(カントは「趣味判断」とも呼びます)にどのように関わるのか。本講義は第一部「美学的判断力の批判」の第一章「美の分析論」にフォーカスし、全5回の講義を通して『判断力批判』への関心と理解を参加者の皆さまとともに深めていきたいと考えています。
さて、カントは美について何を主張しているのでしょうか。「美の分析論」の冒頭部分を引用してみると、彼はこのように言っています。「何か或るものが美であるか否かを判別する場合には、その物を認識するために表象を悟性によって客観に関係させることをしないで、構想力(恐らく悟性と結びついている)によって表象を主観と主観における快・不快の感情とに関係させるのである。」(岩波文庫版『判断力批判』上巻、70ページより引用)……表象?悟性?構想力?カントに馴染みのない方は、この時点でもう既にうんざりしてしまわれたかもしれません。しかし美とは私たちにとって身近な体験であるはずです。「なるほど、そういうことか」と思っていただけるように、必要に応じて他の著作も参照し、カント哲学の基本概念について適宜解説を加えながら講義を進めていきます。
発見や収穫の多い充実した1ヶ月を皆さまと過ごすことができれば何よりです。カントの著作に初めて触れる方も大歓迎です。ご参加お待ちしております!
*本講義では、岩波文庫版の『判断力批判』(篠田英雄訳)を使用します。他の邦訳書をお持ちの方は、そちらを使ってご参加いただいても構いません。ですが、講義内で挙げるページ数は岩波文庫版に準じますので、あらかじめご了承ください。
第1回講義:2023年01月22日(日):20:00 - 21:30
イントロダクション:カントの生涯や、『判断力批判』に先立つ『純粋理性批判』と『実践理性批判』を含む主要な著作とその内容、エピソードや哲学史における位置づけなどを簡単に紹介します。その後、『判断力批判』という著作について、時代背景や後世への影響、全体の構成などといった観点から概要を述べます。第2回から「美の分析論」を読んでいきますが、「序言」と「序論」にも重要なことが書かれているので、それらの要点をかい摘んで説明します。「序言」と「序論」はあわせて「美の分析論」全体と同じくらいの分量があるのと、それまでの著作に登場した概念が頻出するため、なかなか骨が折れますが、もしお時間があれば講義前にご一読ください。
第2回講義:2023年01月29日(日):20:00 - 21:30
趣味判断の第一様式「性質」:カントは美の判断を四つの契機から捉えますが、初めに示されるのが「無関心性」です。関心が混じった判断は対象の美しさを純粋に評価するものではない、とカントは述べます。この場合、関心とはどのような意味をもつのでしょうか。例えば美術館に行くときや展覧会で作品に注目するとき、私たちは何かしらの興味・関心をもっています。このような意味での関心と、美の判断から排除されるべき関心とはどう異なるのか。カントの議論を読みつつ、皆さまと具体例を出し合って考察していきたいと思います。
第3回講義:2023年02月05日(日):20:00 - 21:30
趣味判断の第二様式「分量」:美の判断の第二の契機として示されるのは、「主観的普遍妥当性」です。この箇所では美の普遍性が問題となります。カントは、人によって異なる感覚的な快と、何かを美しいと感じるときの快は区別されるべきだと言います。つまり、美を語るということは単に個人的な好みの問題で片付かないということです。しかしその一方で、美の普遍性は主観的なものに過ぎないとも述べています。主観的であるにもかかわらず、同時に普遍的であるとはどういうことなのか。ここも、さまざまな実例を挙げながら読み進めていく予定です。
第4回講義:2023年02月12日(日):20:00 - 21:30
趣味判断の第三様式「関係」:美の判断を特徴づける第三の契機は「目的なき合目的性」です。目的がないにもかかわらず、合目的的である……既にこの表現が不思議というか胡散臭いというか、何とも分かりにくいのですが、合目的性は『判断力批判』全体に関わる重要概念であり、簡単にスルーすることができません。この箇所では、カント自身がさまざまな例を挙げて説明を試みています。その例が適切なものかどうかも皆さまと一緒に検証しながら、読み進めていきます。
第5回講義:2023年02月19日(日):20:00 - 21:30
趣味判断の第四様式「様態」:最後にカントは美の判断の第四の契機として「概念なき必然性」を挙げます。第二様式「分量」のところで述べられていた通り、美の判断は単純に個人的なものではないけれども、万人に関して当てはまるようなものでもありません。万人に例外なく必然的に妥当するものではないという点で、美の判断は特殊な必然性をもっている、とカントは言います。それは「すべての人に例外なく同意を要求する」という必然性です。短いながらもひときわ難しい箇所ですが、これまでの議論を振り返りつつ読み解き、最後に「美とは何か」を改めて考えます。
こんにちは。関西学院大学でカントの思想を中心に哲学を研究している八木緑(やぎ・みどり)と申します。前回はカントの『永遠平和のために』の講義を担当させていただきました。今回も、参加者の皆さまと一緒にいろいろな気づきを得ながら、哲学の面白さを共有していきたいと考えています。
前回の講義シラバスのメッセージのほとんど繰り返しになってしまいますが、本音であり、一番伝えたいことなのでもう一度書きます。紆余曲折を経て曲りなりにもこれまで哲学研究に携わってきた私ですが、哲学という学問の何が良いのかはよく分かりませんでした。哲学は個人的には楽しいし面白いけれど、それを人にうまく説明することができずにいました。最近になってようやく気づいたのは、「哲学の良さは、それぞれの人が哲学してみないと分からない」ということです。拍子抜けするような答えかもしれませんが、哲学とはそういう学問であり、まさしくそこに良さがあるのだと思います。その良さに気づくには、哲学書に向き合い、人と議論し、時間をかけて思考を続ける必要があるかもしれません。確かにそれは楽なことではありませんが、決して無駄ではないと思います。皆さまの「哲学ライフ」を豊かにするお手伝いが少しでもできれば幸いです。