終了済み講義
本講座では本居宣長の「物のあはれ」に関する著作を読みすすめていきます。
「あはれ」とはひと言でいえば「心がグラっと動く」感覚です。
この「心がグラっと動く」感覚を、本居宣長は自身の思想の根幹に据えようとしました。江戸時代、仏教や儒教が社会や人の考え方に強い影響力を持っていました。その中で、日本古来の物の考え方、否、物の感じ方ができなくなってしまっている。そう宣長は主張します。
そこで宣長が目をつけたのが和歌でした。和歌こそが、本来あるべき「心がグラっと動く」感覚を体感することのできるものだと考えたのです。
今回テクストとした『排蘆小船(あしわけおぶね)』『石上私淑言(いそのかみささめごと)』は本居宣長が問答形式で「和歌とは何か」について述べていくものです。
本書に興味を持たれる方は、「物のあはれ」の議論を読んでみたい、という動機のもと手に取られることが多いと思います。しかしページを繰っていくと、古典作品や和歌の引用、当時の学者の知識が前提とされる記述に直面し、なかなか前に読み進むことが困難な著作であることがわかってきます。
本講義は、それに伴う1カ月の共同読書サークルとともに、その困難を一つ一つ解きほぐしていき、現在にまで至る「日本」の原型を探り出そうとした本居宣長の代表的著作を、皆様が読み切るための伴走者となります。そして願わくば、本講義終了後も、参加者の方が走り続けられるような基礎体力作りの場ともなるようにしたいと思います。
*本講義は子安宣邦校注の岩波文庫黄色版をもとに進めます。
また他のテキストとして、筑摩書房版本居宣長全集第二巻、日野龍夫校注の新潮日本古典集成(『石上私淑言』のみ)などがあります。
第1回講義:2023年02月18日(土):20:00 - 21:30
「物のあはれ」の考えを読んでいくために、本居宣長がなぜ「心がグラっと動く」感覚に自らの思想の根本を見出そうとしたのかを、日本古典文学史や日本思想史の文脈を踏まえて解説します。そして宣長の思想が後世の人々によってどのように受け入れられていったのかについて概観します。ご自身の持っている宣長像とぜひ、くらべてみてください。
各回の最後では次週に向けての読書範囲について読みどころと気を付けておく点を解説します。
第2回講義:2023年02月25日(土):20:00 - 21:30
『排蘆小船(あしわけおぶね)』では宣長の和歌観がはっきりと表明されています。「和歌は何かの役に立つものなのか?」「江戸時代当時の和歌界の問題点とは?」「和歌はどのような歴史をたどってきてか?」「なぜ人は和歌を詠むのか?」
宣長の思想的立場を表すとともに、優れた和歌入門書ともなっています。第1回での概説を踏まえて、宣長の実際の文章に分け入って行きます。
第3回講義:2023年03月04日(土):20:00 - 21:30
この回以降の3回で『石上私淑言(いそのかみささめごと)』を読んでいきます。『排蘆小船(あしわけおぶね)』でアイデア的に芽生えていた感情そのものへの眼差しが、「物のあわれ」という概念として練り上げられていきます。
『石上私淑言)』では冒頭から宣長が「和歌とは何か」に答えていく中で、早速「物のあはれ」が論じられます。講義では宣長が「物のあはれ」というものをどのような方法で説明していくのかを皆さんとじっくりと追っていきたいと思います。
第4回講義:2023年03月11日(土):20:00 - 21:30
『石上私淑言(いそのかみささめごと)』の中盤では「うた」や「やまと」、「日本」という言葉について論じていきます。言葉の来歴を丹念に跡付ける宣長の論述の方法を味わってください。宣長が自身の思想を語るとは、単に自らの考えを一方的に述べるのではなく、あくまで古典に論拠を求めながら論述を進めて行くさまを見て取ってもらいたいと思います。
第5回講義:2023年03月18日(土):20:00 - 21:30
『石上私淑言』の後半部で宣長は「中国」と「日本」との比較文明論を展開し、その中であらためて「もののあはれ」が論じられます。宣長が「中国」という大国を目の前にしてどのような思想闘争を繰り広げたのか。本書のクライマックスです。
最終的に『排蘆小船』『石上私淑言』を読み通してみて、参加者の皆様がどのような宣長像を新たに手に入れたのかについて議論をしながら、全体の総括をします。
日本学術振興会特別研究員PDをしています、藤井嘉章です。
私が専門的に研究しているのは本居宣長の古典解釈についてです。宣長が『古今和歌集』や『源氏物語』、『新古今和歌集』などの古典作品をどのように読もうとしたのか、その読みの「くせ」や傾向性を明らかにすることで、彼が古典を読むときの頭の動き方を探ろうという研究です。直接的に宣長の思想的メッセージを受け取るよりも、その思想を作り上げていくために文献を読んでいる時の姿勢から、宣長の考え方を明らかにしようというアプローチです。
私は学部時代に中国語を専攻しており、宣長が排斥しようとした「漢意」側の領域を学んでいたとも言えます。ともすると宣長研究は日本的なものに閉じこもるか、あるいはそれを悪しきファシズムの根源だと否定しようとするかの態度に二分されがちです。しかし宣長が取り払おうとした中国的なものの視座を持って宣長や国学を眺めることで、いくばくか皆様に公平な宣長像をお届けできるのではないかと考えています。 『排蘆小船』『石上私淑言』は古文体で書かれており、慣れないうちは必ずしもすらすら読めないかもしれません。だからこそ、多くの人と一緒に読んでいるという共同感覚や、期間中のSlackでの質問などを利用できるこの機会を活用して頂けると嬉しく思います。
講義の最終回後には参加者の皆様とざっくばらんに話すZoom飲み会を開催します。ぜひ奮ってご参加ください。