終了済み講義
ChatGPTよろしく人工知能の台頭により、近年益々自分で考える力が問われる時代になったと見受けられます。しかし、Generative Pre-trained Transformers (GPT4など) を日常に取り入れることで、一個人が独自に考える必要がなくなるのかもしれません。現に「考える」という言葉だけを取ってしても、どこからどこまでが自分の頭で考えた結果なのか明確に答えられる方は稀でしょう。携帯電話という物質(或いは電子チップ)に、はたまたインターネット上のクラウドに、今日では多くの記憶と思い出が保存されています。それらなくして純粋に自分で考える、畢竟、哲学することは可能なのでしょうか。むしろ、自分の頭で考えたメンタル集合体とそれ以外の「もの」との間に線引きをすることで、ある二元論的陥穽に陥っている可能性もあります。思考停止と言えなくもありません。というのも、線引きという認識的区別化をすることで、物事を明確に理解したと完結的に考えられるからです。この点で、日本の誇る前世紀の哲学者、大森荘蔵(1921–97)は二元論的「誤解」が近代科学的細分化に由来すると説きます。デカルトの心身二元論(思惟と延長の分離)に代表されるように、物理的現象を死物的に数量化し尽くそうとした結果、取り残される「心」の所在無さに大森は注目しました。彼は、なぜそのような二元論的思考に誤謬があるのか、翻って、なぜ一元論的思考が健全な論理であるのか論じました。心(思惟する精神)と物質自体を分ける二元論を超えて、心と物の「重ね合わせ・重ね描き」という一元論の思考可能性を追究していったのが、大森哲学の真骨頂かもしれません。その一元論的根底に、分析哲学を学ぶ上で避けては通れないクワイン(1908–2000)の論理的、認識論的ホーリズムの影響があったと読み込むことも可能でしょう。大森がハーバードで彼の薫陶を受けていたことは、日本哲学の位置付け的に大事な要素です。
さて、本年は数ヶ月前に大森の『流れとよどみ』(初版1981年)を別の講師の方が開催されたことを幸いに、今回は別の角度から、正確には上記の一元論的観点から大森哲学を重ね合わせたいと思います。テクストは『知の構築とその呪縛』(初版1994年)という文庫本で200ページほどの内容です。大森は平易な言葉遣いで、といっても彼独自の捻りある表現で一元論哲学を明晰化していました。このテクストは『流れとよどみ』より難解かもしれませんが、一元論と二元論の対立を歴史的・絵画的観点から俯瞰しており論旨は明白です。且つ放送大学で使われたテクスト(1985年)として1章ごとが短く構成されており、1ヶ月かけて精読する内容としては妥当かと思います。そのため今回は、初回の導入以降、4回の講義で全15章を読了及び、大森独自の「考え方」を検討する予定です。
筑摩書房『知の構築とその呪縛』文庫本をテクスト底本として扱います。
第1回講義:2023年04月17日(月):20:00 - 21:30
導入講義ゆえ、テクストは未読の状態で参加可能です。初めに、『現代思想』大森荘蔵生誕100年特集号(青土社 2021, vol. 49-1S)を主に参照し、彼の科学哲学者的経歴、また西洋分析哲学(マクロ)と現代日本哲学(ミクロ)における彼の重要性を紹介します。さらに、大森哲学の範疇で『知の構築とその呪縛』と他の著作群との比較解説もします。最後に、購読上のアドバイスと注意点を共有致します。
第2回講義:2023年04月24日(月):20:00 - 21:30
文庫版へのはしがき(ちくま学芸文庫)及び第1〜3章:
「概論的序論」
「略画的世界観」
「日本における略画世界」
を精読・解説します。西洋科学哲学史が主軸ではあるのですが、第3章は日本・東洋思想への言及が多いので、朱子学の理気二元論などテクストの文脈で解読します。
第3回講義:2023年05月08日(月):20:00 - 21:30
第4〜7章:
「西欧古代中世における略画的世界観」
「略画の密画化、その始まり」
「略画の密画化、不可避の過程」
「密画化と数量化」
を精読・解説します。アリストテレスやガレノス中心に古代ギリシア科学の略画的(マクロ)基盤から、ハーヴェイやガリレオらによる密画的(ミクロ)細密化、及びそれに伴う数量化を科学史的に掘り下げます。
第4回講義:2023年05月15日(月):20:00 - 21:30
第8〜11章:
「密画の陥穽—物の死物化」
「感覚的性質のストリップ」
「二元論の構造的欠陥」
「二元論批判」
を精読・解説します。現代科学物質観の根底的誤解、或いは元凶にデカルトの生理学的(心身)二元論があるとし、その反論としてバークリ(僧正)の非二元論的知覚論との対比を主に検討します。
第5回講義:2023年05月22日(月):20:00 - 21:30
第12〜15章:
「原子論による密画描写」
「人体の密画描写と知覚因果説」
「物と感覚の一心同体性」
「自然の再活性化」
を精読・解説します。知覚因果説の難点など、哲学的にテクニカルな箇所は正確に解釈しながら、脚注が極端に減る最後2章(第14・15章)における大森自身の一元論的主張を汲み取ります。時間の許す限り、参加者の方々と読後の意見交換をしながら、全体の総括をします。
中国は深圳に在住し、南方科技大学のフェローで御座います、小田崇晴(おだたかはる)と申します。英国国教会の僧正(ビショップ)ジョージ・バークリ(c.1684–1753)の哲学を長らく研究しています。彼の過ごした国と大学、アイルランドはダブリン大学トリニティコレッジで哲学PhDを取得するほど、僧正の哲学を愛してやみません。ゆえに専門は西洋近世哲学、特にバークリ『運動論』におけるプラグマティックな因果論について論攷しています。また比較哲学の新地平も目指すべく、仏教(四句分別)やジャイナ教(七値論理)の東洋因果論も学んできました。最近は夏目漱石が25歳の時に書いた老子道徳経の論証(argument)を手掛かりに、中国で道教論理学を模索中でもあります。ダブリンで妥協なき妥当な論理学の英米分析系論証訓練を受けたこともあり、哲学を研究すればするほど論理(学)の大切さを痛切に感じてきました。大森自身もこのことを痛切に感じていたと読み取れる節が著作中にありますが、『知の構築とその呪縛』は論理学知識の前提がなくとも論理的に、ゆえに哲学的に楽しめる本だと感受します。
実は昨年から大森と井筒俊彦(1914–93)の一元論哲学の比較から、バークリ三元論的解釈を論攷しております。一元論でも二元論でもなく、三元論に妥当的議論の余地があるのか。大森の多大なる興味対象であったバークリにも関聯付けたりしながら、参加者の皆さまと自由闊達な議論ができることを心待ちにしております。
講義の最終回後には参加者の皆さまと話すZoom飲み会の開催も考えております。是非奮ってご参加ください。