終了済み講義
わたしたちは笑う。自分の愚かさを笑い、だれかのミスを笑い、子供の一生懸命だが珍妙な発言に笑う。テレビのニュース番組に挿入される動物の動画に笑い、ネット上で更新され続ける芸人さんのラジオに笑う。
しかし少し立ち止まって考えてみましょう。笑いとは不思議な作用です。わたしたちはなにも、意志して笑おうとしているわけではない。お笑い番組を見ても「笑えない」ことはある。無理に声を出して笑おうとすればどうしても不自然になる。笑いは、どこか自発的に、もっといえば機械的に、やってくる。気付けばそれはわれわれの口元や頬や喉を動かす。——しかし、われわれはどんなときに笑うのだろう? なぜ笑っているのだろう?
「笑いとは何を意味するのだろうか」。これが、アンリ・ベルクソンによる、かの有名な『笑い』(1900年)の問いです。その「序」のページを開いてみれば、笑いという現象について、「科学的な正確さと厳密さを兼ね備えた唯一の方法」(第23版)で取り組もうという、この哲学者の真剣な意気込みが掲げられています。
正確さ・厳密さをめざす哲学者の笑い論。笑いの現象を一挙に収めるような、一刀両断の「定義」や「定式」を、ベルクソンは提示してくれるのだろうか? ——この期待は見事に裏切られます。というのは、彼のいう「正確さと厳密さ」は、そうした独断をできるだけ遠ざけるところにこそ成立する。彼はむしろ徹底的に笑いの現場を尋ねることを選んだのです。ラシーヌ、コルネイユ、特にモリエールの喜劇の台詞。さらにラビッシュなど当時のヴォードヴィル作家の台詞。こうしたテクストだけではなく、さらにはサーカスの作り出す笑い、子供時代の遊びの作り出す笑い、真面目な性格が作り出す笑い、変な顔の作り出す笑い……。笑いの場面を一つ一つとりあげ、眺め直すベルクソンの手つきには、論じられる対象に対する、なにか深い愛着、愛情のようなものさえ感じられます。
とはいえもちろん、ベルクソンの記述はディティールの愛好家的な分析に終始するものでもない。ベルクソンは、おかしさの主題をわれわれのしなやかな生にこびりつく「硬直性」と見定め、この硬直性を除去する社会的な作用としての「笑い」、つまり、われわれが社会をなす以上は普遍的に作動する装置としての「笑い」を見る。つまりベルクソンは、「笑い」という対象を、われわれの社会的な「生」全体を論じようとする広大な視座から眺めているのです。だからベルクソンの記述は普遍性を持つ。実際、硬直性というおかしさの「主題」のもとで、おかしさを作り出す具体的手法を次々と明らかにしていくベルクソンの分析は、文化圏の違うわれわれにも強い説得力を持って迫ります。ベルクソンが取り出して見せる笑いの製造法のうちには、桂枝雀の落語や、大木こだま・ひびきの漫才や、中川家のモノマネ芸や、アンジャッシュのすれ違いコント等々の芸に通じる要素が、たくさん見出されることでしょう。
こうして、一方にはきわめて具体的な「笑い」の事例分析、他方にはスケールの大きな「生」の考察、これら両方を犠牲にしないままに、『笑い』という本が成立する。困難な道だったはずです。一体ベルクソンはどのような方法を用いてこの道を切り開いたのでしょうか。おそらく『笑い』はベルクソンの思索の中でも非常に重要な契機でした。1900年以降のベルクソンが歩む道に目を向けましょう。そこには『創造的進化』(1907年)の生命論や、『道徳と宗教の二源泉』(1932年)の共同体論があります。そこにはほとんど無限に多様な現象に溢れるフィールドにおいて、それでも何か現象の「意味」を見出そうとするベルクソンがいます。「おかしさの意味についての試論」という副題の付された『笑い』にはすでに、多様な現象と徹底的に向き合いつつそこに「意味」を見出そうとする、誠実な態度のようなものが刻まれている。この哲学者にとって、哲学の営みがめざすべき姿はそこにあったはずなのです。
少々長くなってしまいました。以下のような方々に、この『笑い』講義を薦めます。
哲学の方法論にかんして—— ・事例研究を行う哲学の方法に興味がある方。 ・ベルクソンの哲学に関心のある方。より限定して言えば、『創造的進化』や『道徳と宗教の二源泉』の記述を構成することになる、中期以降のベルクソンの方法の転換点に立ち合いたい方。
『笑い』が扱う対象に関して—— ・喜劇、お笑い、ギャグ漫画など、おかしみから来る「笑い」にまつわる現象に関心のある方。 ・また同時に、それと対比されるところの、シリアスな芸術にも関心のある方。 ・われわれの生きる社会や共同体のメカニズムについて、「笑い」という観点から眺めて見たい方。
みなさまのご参加を心よりお待ちしております。
第1回講義:2022年05月11日(水):20:00 - 21:30
イントロダクション。
ここでは本文に入る前の準備作業を行います。読む前に前提知識として押さえておきたい、ベルクソンという哲学者の特質、彼がやりたかったことの全体像、その中での『笑い』という著作の成立……といった事項を、ベルクソンの専門家として紹介いたします。さらに、この日からはじまる『笑い』読解のために、やや専門的な哲学用語であるとか、「ヴォードヴィル」といった同時代的な文化的背景などについても学びます。。
第2回講義:2022年05月18日(水):20:00 - 21:30
第一章「おさしさ一般について 形のおかしさと動きのおかしさ、おかしさが拡がる力」読解。
基本的な読み筋を確認した上で、Slack上で集まったみなさまの質問・疑問・関心などに照らしつつ、読解を深め、議論を交わしましょう。無感動性、緊張の緩み、内容に対する形式の優越……など、豊富な材料が一挙に提供されます。とりわけ、「硬直性」という本書全体の鍵概念について理解を深めることが重要でしょう。
第3回講義:2022年05月25日(水):20:00 - 21:30
第二章「情況のおかしさと言葉のおかしさ」読解。
前章の分析を引き継ぎつつ、「情況」や「言葉」のおかしさといった、より複雑で繊細な分析を要する事例に進んでいきます。ここでも、参加者のみなさまの疑問にお応えしつつ、おかしさを作る「三つの手法」について読解していきます。「言葉のおかしさ」の分析に関してはかなり応用のきく箇所です。読者であるわれわれ自身もまた事例を集め、事例を作り、ベルクソンよろしく具体的な水準で議論を行ってみましょう。
第4回講義:2022年06月01日(水):20:00 - 21:30
第三章「性格のおかしさ」読解。
最終回では、「情況」のような外的なおかしさの考察をさらに深め、われわれの心の内部に関わるおかしさ、「性格」のおかしさにまで到達します。この章はすこし雰囲気が変わって、「笑い」という主題がシリアスな「芸術」の領域との比較のもとで論じられます(ここはベルクソンがまとまった芸術論を語ったほとんど唯一の箇所であり、その点でも貴重です)。深められてきた「おかしさ」についての考察は、「芸術」、「善」、「悪」、「社会」、要するにわれわれの「生」についての意義深い考察へと広がっていくのです。せっかくの最終回、全体の内容を振り返りつつ、参加者のみなさんの関心からも、さまざまに議論を行えたらと存じます。
京都大学で哲学研究を行っております、濱田明日郎と申します。
哲学者ベルクソンは、つねに経験へと立ち返ろうとする実直さと、思ってもみなかった角度から哲学的な問題を解消してしまう発想を兼ね備えた、きわめて魅力的な哲学者です。
『笑い』はわたしが特に関心を持っている中・後期ベルクソンの仕事の端緒をつけるような著作であることもあって、この講義を通じて、参加者の方々と一緒に『笑い』読解を深められることを、とても嬉しく思っています(単にお笑いが好き、ということもありますが)。
じつに些細なことなのに、こんなにも捉え難い「笑い」。とても具体的で、しかも普遍的。これをできるだけ正確に捉えたい——なんともわくわくさせられる、哲学の冒険ではありませんか!
皆様のご参加を心よりお待ちしております。